やっぱり一か月くらい経ってしまいましたね。光陰矢の如し。
今月は、いや今月も? 精神的には参っていますね。毎日日記をつけていますが、昨日書いたことも、まるで他人の話のように感じていささか不気味です。いまの実家に越してきてから六年しか経っていないのですが、引っ越してきた当時の記憶も曖昧なくらい記憶が薄くて、「あのときこんなことあったじゃん?」と家人に話をふられると、「ごめん、覚えてない……」となってしまって呆れられる毎日です。このまま、こいつはなにも覚えてないんだなぁ~と判断されて話しかけてこなくなればいいのにな、と期待しています。
近頃はことに静寂を好むようになっていて、母やすぐ下の妹二人が、多弁かつ声がでかいのをものすごく嫌悪しています。彼女たちと顔をあわせなければいいのでしょうが、自分も彼女らも働きに出られない状態なので、律儀に避けることもかなわず、ましてや壁の薄い中古住宅ですから、同じ部屋にいないのに声が聞こえる状態。家庭内の立場はわたしのほうが低いので、なにも言えません。それに加え、気付いたときには家族全員の相談役になっていたので、聞きたくない他の家族への愚痴だとか、どうにもできない悩みの吐き出し口として静かに全部聞いて、メンタルケアをして、安心させる役回りをしているため、荒む一方です(笑) なりたくてなったわけではないので、辞め方もわからず、こういう星のもとに生まれてきたのだなと受け入れる方向で考えています。
毎月こんな話で始めちゃってすみませんねぇ。自分もできれば明るい話ばかりしたいですけど、ごめんなさいね。
そうそう、料理を担当してくれているすぐ下の妹が、よく夕方になっても眠っていたりするので、自分が料理もするようになれば自分の負担がかえって減るのでは? と考えて久々に料理をしたんですよ。
祖母が「この間長尾ちゃんが作ってくれたトマト味の粥が喰いたい」と言ったもんですから、その“この間”が全く思い出せないけれど、家族の中でいちばん大切に思っている祖母に孝行しようと思って、トマトリゾットを作ることに。
材料を買ってきて、お米を炊いて、鍋の用意をして……と進めて、いざお米投入! と炊飯器を開けたら、そこには生米がいました。なんと、水を入れ忘れて炊飯スイッチを押したのです。……疲れ? 若年性認知症? ただのドジ? もう自分を呪いまくりました。しかし夕飯の時間まであとわずか。ええい、鍋で煮ればみんな粥になるさ。
……うちは大所帯ですから、お米は毎日一升炊くんですよ。はい、なにも考えずに入れました。鍋に、一升。
そして出来上がったのは、芯の残った米にトマトの味がついたものです。
あのね、料理がうまいかへたかを分けるのはやっぱり“横着をするかしないか”なんですよ。(経験者は語る)
これね、今回この失敗をしたでしょ? その一週間くらい前に、やっぱり夕飯を自分が作ろうと思ってそうめんをゆでたんです。そのときも、やっぱり大所帯ですから、一度に十束ゆでるんです。うちでいちばん大きい鍋を用意して、お湯をいっぱい沸かして、「これだけお湯あったら一気に茹るだろ!」 はい、失敗。そうめん一気に茹でると束になっちゃってそこがもろに小麦粉のかたまりの味するんですよ。わたしは好きなんですけど。もうどうしようもないのでそれを出したら、母が、「お母さんもね、一番最初に嫁いだ家で、まだ十代だったんだけど、そうめん茹でたの。長尾ちゃんと全く同じ失敗してね、お義父さんに『お前は料理が下手だなぁ』って笑い飛ばされたよ」と苦笑いとともに打ち明けられました。親子って……(笑)
いくら記憶があやふやになりつつあるとはいえ、一週間前に料理を横着して失敗したのに、それを忘れてまた横着して失敗するって、もう笑い話でしょう。台所に貼りたい。「料理は慎重に」って、墨書で書いたやつ。お客に見られたら恥ずかしいのでできませんけどねぇ。へこみましたわ。
楽しかったこともありますよ。
ながらく接客の仕事ばかりしてきたので、GWっていう存在自体が反吐がでるほど嫌いなんですけど、その期間内で唯一好きなイベントがあって。わらびとりっていうんですけどね。
実家は北関東の県庁所在地なんですけど、市内でも結構北部なので、車で少し行けばもう山なんです。幼いころはもう少し平地に住んでいましたけど、祖母や伯母が山菜採りによく行く人なので、いろいろ連れて行ってもらってまして、なかでも五月初旬は近場のわらびがシーズンなので、昔からわらびは身近な存在でした。
とはいっても、子供のころは山にいくことがどちらかといえばレアだったので、わらびを見つけるのも、山を歩くのも下手で、結構退屈に思っていたんです。
ところが、成人してからはわらび採りが楽しみで仕方なくて、「明日山にいこうか」なんて祖母がうれしそうに言い出すと、顔には出ないけどわたしも嬉しくなっちゃって、わくわくして夢のなかでもわらびを探している始末です。
山菜を摘むことだけではなくて、山の匂いとか、野ウサギの糞や足跡をみつけたり、とかげや、きのこや、いろいろ見るのが楽しいんですね。きっとこの先どれほど文明が進もうと、全人類が野山に暮らす心を忘れることはないのだろうという感覚があります。利便性が高まることは歓迎するけれど、古来より脈々と受け継がれてきた技術は、この地球で暮らすのに必要であるから伝わっているのだから、容易に絶つべきではないとおもうんですよねぇ。と、わらびの灰汁抜きの準備をしながら考えたとさ。
あともうひとつ、この頃これを楽しんでいるとやっと気づいたのは、ハムスターの小屋の床材ほぐしです。昨冬からこれまでのパルプの床材にくわえて、わたを入れるようにしたんです。始めたころは冬だけのつもりだったんですが、季節を問わずわたがあるとハムスターが喜ぶことを知り、定期的に床材を入れ替えるときには無心にわたをほぐしています。
これが、楽しい。パッケージの中にはぎゅっとなって入っているので、ほぐしがいがあるんですよね。ほんの少しに見えたわたがふわっふわになっていくのが楽しいのも勿論ですが、掃除を終えたケージの中にハムさんを戻すと、ふわふわの上を小さな体を埋もれさせながら歩き回ってくれるので、かわいさ8割増しというか。
もちろん読書や手芸も欠かさずやっとりますよ。
読書は、今月はほぼ毎日読んだので、列挙するのが大変なため今回から省略します~。だれも興味ないだろうし(笑) もし気になるならいままであげてきた書名からわたしのブクログアカウントを割り出して覗いてみてね! 当然名前はいままで使っていない名義でやっているけれど特定は難しくないと思いますよ、そんな暇な人いないだろうけど。
で、手芸の方。
先月のブログで、人形がほしいんだけどどうしようかなぁ、みたいなことを言ったんですが、お察しの通り、編みました。まだ素体に髪が生えた状態で、服はこれからなんですがね。それでも髪の毛を編みつけると一気に人形らしさがでます。
今回この子を作るためにいろいろなヒトガタのあみぐるみの画像を参考にしたんですが、足のパーツから腰への立ち上げかたがどうしてもわからなくて、結局いままで作ってきたあみぐるみの要領で胴体に足をかがりつけたかたちです。だからちょっと、ヒップラインがパンパンになったおむつみたいで不格好ではあります。服を着せれば隠れるけどね。
また、骨格としてワイヤーを仕込んでみたんですが、ワイヤーの組み方がいまひとつで、骨を入れたのに座ったままで保持できない、という由々しき事態に。
髪の毛も試行錯誤しました。インスタのあみぐるみドール作家さんたちの投稿をみていると、あらかじめウィッグのように髪の毛を編んでから、ボンドで貼るか、糸で縫い付けるかしていたんですが、どうもうまくいかなくて。結局頭部をいくつかに区切って、一列ずつ編みつけました。その密度とかもなんどか失敗して、ここまで作るのに一月もかかってしまいましたねぇ。
オリジナルの作品づくりって大変だ。
これはあくまで個人の見解なんですけど、作家を名乗るからには、オリジナリティが求められるじゃないですか。なににつけてもね。それはハンドメイドも同じで、独自のデザインの作品があってはじめて作家を名乗れるんですよね。全くクリエイティブな界隈になじんでいない人々は、キットによってできた作品だとか、他の作家様のレシピを拝借してできた作品なんかも、「自分の手で作ったら自分の作品」という認識なので、「すごいじゃん、プロじゃん、売れるじゃん」と簡単に仰るんですが、言われる側は複雑なんですよね。
知らぬが仏とは言いますが、小学生の書写の授業で、見本通りの美しい字を書く子はたしかにものすごい褒められるけど、「書道家じゃん、個展開けるよ!」とはならんでしょ?
いまハンドメイド作家として活躍していらっしゃる方も、たぶん入口はキットであったり、レシピ本、動画サイトのレシピ動画だと思います。それが、だんだん自分好みのデザインを考えるようになって、改めてレシピを書き起こして、何度も試作や修正を繰り返して、やっと納得いく出来になって、販売に踏み切ったんだろうと思います。それはすごいことです。しかし相変わらず世間のイメージは、おうちで内職して自分で運営してるんだから楽だね、とか、所詮手作りでしょ? とか、あんまり正当に評価されていない気はします。
現に自分も、友達や家族への贈り物が手作り品ばかりなことを恥じる気持ちがあるわけで。もう少し精巧なものが作れるようになったら、自分の認識も刷新されるのかな、という淡い期待はあります。どちらにせよ、研鑽あるのみですな。
6月はお人形の服の型紙起こしがメインの手仕事になりそうです。
それにしても写真の画質が悪い。好きでガラケーにしたけど、写真の画質は計算外だった……。デジカメがほしい……。
ではでは~。